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TEL 0138-83-1127
函館市中島町25-18
中島れんばいふれあいセンター
函館市民の台所

中島廉売

ふれあいの街

ようこそ中島廉売へ!

アクセス

中島廉売へ
函館市電「堀川町電停」から徒歩で約5分
バス停「堀川町」から徒歩で約4分

車でアクセスの場合は廉売内に駐車場があります。

お知らせ

2024.10.20
函教祭に参加しました!
2024.05.18
中島三郎助まつりを開催しました
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中島廉売とは


昭和九年三月二十一日の函館大火で焼失家屋、焼死者多数を出す大惨事であったが、この火災でわずか焼失戸数
五十六戸に過ぎなかった中島町は、大火後戸数の増加を見て現在約千四百三十九世帯に達している。その昔は
刑務所であったが今はこの付近一帯に住宅が並び昔日の面影はない。住民の多くは勤め人である。
大火後は大通り中央部から白滝橋迄露天が出店、東部の名物として五稜郭、亀田地区から客を呼び、五、十の夜市も許可され付近の発展に拍車をかけ、消費者の名物市場として親しまれた。昭和九年から昭和十一年と露天出店話が百軒近くになるとれんばい通り両側の一般住宅も商店に改装する所があらわれ、商店街としての実質的誕生を
昭和九年と位置づける事が出来る。

中島町の名前の由来となった武将「中島三郎助」

当時、浦賀奉行与力であった中島三郎助は、1853年6月3日三浦半島浦賀沖に突如現れたあまりかの黒船に最初に乗り込みペリー提督らと直接応接し日本外交史に貴重な役割を果たします。 その後、彼は榎本武揚とともに蝦夷共和国実現に夢みて函館へ向かいますが、官軍との激しい戦いの末、長男 恒太郎、二男英次郎の父子3人と最後の陣屋 千代ヶ岡陣屋(中島町)で壮絶な戦士を遂げ数日後五稜郭は開城され、ここに戊辰戦争は終結するのであります。(1869年5月18日) このように中島三郎助は、近代日本の幕開けに燦然と輝く逸人であり、遠く離れた函館と浦賀の両市民にとっての交流の絆となっています。

「中島三郎助」関連の函館市の名所・史跡

千代ヶ岡陣屋跡
現在のオーシャンスタジアム裏のあたりから中島小学校の一部にあったとされています。中島廉売市場から徒歩5分。
中島三郎助父子の最後の地
中島町の有志の方々により常に綺麗に整備されています。
中島廉売市場から徒歩5分。
ペリー銅像
浦賀で中島三郎助は、ペリー艦隊の旗艦に乗船し国書を渡す。そのペリーも箱館に寄航。函館 元町基坂。
外国人墓地
函館の外国人墓地には、ペリー艦隊の乗員も眠っています。
函館 船見町。
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1821年 浦賀奉行所与力中島清司永豊の二男として誕生

1846年 与力見習(1835年より) 観音崎台場詰、鳥崎台場主席、浦賀で大砲製作。
      この年まで槍術、砲術を身につける。
      特に砲術は、熱心で荻野流、集最流、田村流、高島流の免許皆伝

1849年 正式に与力職になる。1853年アメリカ東インド艦隊司令官ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
      外国応接掛として旗艦乗船。国書受渡・送迎役(久里浜)

1854年 ペリー再び来航。外国応接掛として黒船に乗船。桂小五郎と交流。

1855年 長崎海軍伝習所へ入る。(第一回生)

1867年 開陽丸軍艦出役。

1868年 榎本武揚率いる旧幕府海軍八隻の艦隊で品川沖を脱出。鷲の木に上陸
      箱館に進行。入札(選挙)にて箱館奉行並。

1869年千代ヶ岡陣屋にて長男 恒太郎、次男 英次郎とともに戦死